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僕のリヴァ・る (前編:演劇というエンターテインメントについて)

「僕のリヴァ・る」を観ました。
私は「演劇」を観た、と確信しました。

私は映画や小説を通して「俳優が演じている/作家に作られているキャラクター」を見ているのではなく、「ただそこにいる人間」を見ています。つまりは、ただこの世(時折この世ではない世界の時もある)に存在している人間の人生を覗いていると思わせてくれるような作品が好きです。
一方舞台とは、「俳優が演じている」という感覚が最も強い創作物だと思います。「『この世に存在しているあの俳優』が『あの俳優とは違う人間』を自分に重ねてキャラクターを作っている」という現象が舞台上で展開されている事実が生々しく伝わってくるエンターテインメントだと。
だからなのか、私は今まであまり舞台を観に行きたいとは思って来ませんでした。
演じられている劇を生で感じるより、スクリーン越しや紙の向こうで自然と存在しているように思える物語を見ている方を好んでいたのです。

それが、「魚のいない水槽」で目と鼻の先で観て、舞台上でも「俳優が演じているのではなくただそこに存在する他人の人生」が生で感じられることを知りました。
(その後「僕のリヴァ・る」演出でもある鈴木勝秀さんの「魔王 JUVENIELE REMIX」も観たのですがこの作品はちょっと別のところに置いておくことにします。)
「高瀬舟・山椒太夫」で、紙の向こうに存在していた人間の人生が舞台上で再現される可能性を知りました。

そして今回、「僕のリヴァ・る」によって、「『この世に存在しているあの俳優』が『あの俳優とは違う人間』を重ねている」という現象に対して、なんと面白いことか!と自分の心が躍ったことを知りました。
私の目の前にあったのは確かに演じられている劇でしたが、それのなんと、面白いことか。

「僕のリヴァ・る」は三部作で、オリジナル脚本の「はじめてのおとうと」、ゴッホとテオ兄弟を描いた三好十郎の戯曲「炎の人」、シュニッツラーの小説「盲目のジェロニモとその兄」が20分~35分ほどで次々に演じられていきました。
つまりは一つ前の話では違う役をやっていた俳優が新たな役を演じるという、まさに私があまり積極的には感じてこなかった「俳優が自分とは違う人間を自分に重ねてキャラクターを作っている」という感覚をいわば強要されるわけなのですが、それがとても、幼稚な言い方にはなりますが、ワクワクしたし面白かったのです。
俳優本人という軸はぶれず、あらゆる人間が重なっていく。
俳優が自ら重ねて行っている。演じているし、演じられている。
もちろん映画俳優でも、前の映画と全然違う役をしていて感動することはあるけれども、観終わったあとに気が付くことが多かったです。リアルタイムで物語を見ている最中に、「演じられている!演じている!」という感覚を面白く思ったのは、覚えている限りは初めてでした。

「僕のリヴァ・る」一つ一つの感想はまた改めて書くとして。
今回は、初めて演劇という現象を面白いと思ったということ自体が興味深い現象だったことを記しておきます。
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屍者の帝国

死体を手に入れ、私に屍者化技術があった時、私は死者を屍者として側に置いておくだろうか。

思った以上に無傷でエンターテインメントだった「屍者の帝国」。
アレクセイが出てきてもニコライが出てきても、その結末がああであっても笑っていられたのは何故だろう……ドストエフ好きーと名乗る資格がないということか……。
それか、「屍者の帝国」が「カラマーゾフの兄弟」の続きではないとどこかで確信しているのだろうか。
「カラマーゾフの兄弟」の二人が「屍者の帝国」に繋がったのではなく、ただ前者から後者へ二人の魂の一端が投げられただけなのだ、とか。

確かにニコライが生者のままあのような形になりそれもアレクセイの手によってああなった時は
「なるほど頭を抱えるとはこういうことか」とドキリとした。しかしドキリとしたのは、その展開自体に対する衝撃からでもあったが、
おそらく皆さんが頭を抱えることになったこの場面を自分があまり悲劇だと思えなかったからでもであった。
「カラマーゾフの兄弟のあの二人がこうなっているわけではない」という思いがどこかにあったのかもしれないけれど。
仮にその思いを認め、ドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」もこの映画が全く別物だと仮定すると、「屍者の帝国」におけるアレクセイとニコライにとってあの形は別に悲劇ではなかったと思う。あの手段をとることで彼らは永遠に一緒にいることが出来るし、取り返しのつかないことを取り返すことがほぼ出来たのでは。

例えばこの映画を通して制作側が何かをドストエフスキー好きに突きつけているとしたら、私は別に深く考えなかったので突きつけられている!とも思わなかったが突きつけていると仮定すると、以下のようなことなのかなあ。
ドストエフスキー二次創作は好きにやってくれ、行きつく先は皆同じ、死なのだから。それとも死なせるのは嫌?悲劇だと思う?だったらこの映画を見て、ほら、死ななかったよ。
どう、アレクセイとニコライにとってこれは幸せかい。
幸せと思うなら、死んだ後も生き続ければいい。幸せでないと思うなら、死に向かわせてあげたらいい。
どちらも嫌なら、生きている彼らを考えていけばいい。
……みたいな。よくわからん。というかそもそも私はドスト二次をあまり考えないから、完全に後付け。
観賞中に感じたとしたら「こういうアレクセイとニコライもいいかもね!どう!?」みたいな実験的好奇心くらい。
屍者化しての食卓シーンは「うわぁ」とは思ったけれど、そういうカラマーゾフの終わりも一つの終わり方としてあるかもしれない、と納得してしまった。むしろ兄さんがあんなボロッとしていたことに納得がいかない。

達成したら世界を揺るがすような目的を達成したい理由が隣にいる友人ただ一人と一緒にいたいから、という流れは良かった。ワトソンとフライデー。ただそこまでマッドではなかったし、歪んでいるようにも見えなかった。何故だろう。アレクセイとニコライに対しても、ワトソンとフライデーに対しても、刃先が上滑りして傷がつかなかったみたいな感覚。
でも鼻をペンでトントンとか、共に刺すところでフライデーが笑うとか、最後の手をぎゅっとか、人並みに感動したので、「屍者の帝国」が伝えたいことは割と受け取ったとは思う。ただ頭を抱えもしなかったしダメージもあまり受けなかったし、終盤の展開とか画面の見せ方とか少年漫画のようだったので、良い意味で「普通に」という言葉を使うと、
普通にエンターテインメントだった。
上滑りしたと思っていても実はついていた傷に気が付いていないのか、傷が入り込む余地がないのか、傷もつかないほど読み取れていないのか、頭を抱えなかった理由は観賞後数日経ってもよくわかっていない。
観賞中私はふふふと笑っていたし、隣の誘ってくれた友達も笑っている気がした。その笑いの意味合いはおそらく一緒なのだろうと推測は出来ていたけれど、実際にはどう思いながら見ているのかは終わってみないとわからなかった。エンドロールが終わって明かりがついた映画館で、私は映画に対して何も恨んでいなかったし、疲労はあったけど沈んでもいなかった。
面白かったねと言っていいのだろうか、意外と古典的なバトルシーンが多かったよね、狂気もそこまでではなかった、アレクセイとニコライならああいう終わり方もあるかも、とか、何がドストエフスキー好きとして正しい感想なのだろうといったことを考えて、脳内が「?」でいっぱいになっていた。
そうしたらお友達も「?」といった雰囲気を醸し出しており、感想が一致していたので(上記のようなことである)、この方と観に行って良かったなと思った。
帰り道線路に飛び込みたいとかは思わなかった。ただ道行く人を見て「みんな生きてるじゃん……」と多少がっかりした気持ちになった。その後、普通にみんなが生きていることの方が不思議な気がしてきた。

とにもかくにも、「屍者の帝国」は面白かった。
「死体を手に入れ、私に屍者化技術があった時、私は死者を屍者として側に置いておくだろうか」ということをその夜考えたけれど、そうかワトソンにはフライデーとの約束という名目があったからあのような行動に出ても違和感はなかったのだな狂気の科学者のように見えなかったのだただ約束を果たしたかっただけなのだから、と妙に納得した。大事な約束があってもそれによって世界より友人を選んでいるのはおかしいんだと思うおそらく。私も屍者としてでも隣にいてほしいとちょっと思うけれど、たぶんフライデーと違って本人が望まないだろうから(フライデーも本気で望んでいたのかはわからないけれどおそらく本気だったのだと思う)止めておこう。屍者化技術を持っていたら自分のためには使わない。ワトソンとフライデーみたいな二人のために使う。破棄しなくてごめん。

「極上文學 Kの昇天 ~或いはKの溺死~」

「極上文學 Kの昇天 ~或いはKの溺死~」のハチャメチャ感想です。

お友達にお貸しいただき、観ました!
「極上文學」という舞台シリーズで梶井基次郎の同名小説が舞台化されたということを聞き、
しかも俳優にはそんなに詳しくないながら「この人はかっこいいなー」とぼんやり思っていた鈴木拡樹さんが「私」役だと知り、
これは観てみたいと思っていたところにうっかり貸していただけたわけです。

さて結論からいえば、「どの俳優さんに落ちるだろうね!?」と言っていただいていたのですが、
どの俳優さんにも落ちませんでした!な、なんだとー!
もちろんどの俳優さんも良かったです。登場人物のビジュアル等は自分の想像と違ったので(どちらかというと黒髪の鈴木さんがKみたいなイメージでした)、おお、と思い、ちょっとビジュアルがきらきらしすぎているかしらんと最初は思いましたが、だんだんと梶井基次郎の世界に馴染んできていて、感嘆しました。
鈴木さんと平野さんの回を観たのですが、生死の境目にいる人とその人を見ている人、という光景を見事に作り出していて!
その光景が自然だったので、俳優さんのことを考える余裕がありませんでした……!
俳優ありきの舞台ではなく、Kの昇天の中に俳優さんが溶け込んでくれたことが、とても嬉しかったです。

しかしやっぱり落ちるには落ちました。
梶井基次郎、改めて好きです。
あのゴ○ラみたいな、歩き殺せみたいな、夭折なのに儚さのない梶井基次郎さんが書く文章がとても好きです。
危うくて、でも文章は不安定ではなくて綺麗で、光景が美しい。
今回DVDを貸していただけて、梶井基次郎の世界を舞台化するとこうなるのか、と感じさせてもらえて良かったです。

「極上文學」は先日「高瀬舟・山椒太夫」を観に行ったのですが、すごく良かった!詳しくは今日は書きませんが、あの舞台を実際に見られて良かったなあと思います。

あと、高瀬舟も、Kの昇天も、休憩がわりのお楽しみコーナー(?)でめちゃくちゃ笑いました。あはは、って。
プロフィール

えるれ

Author:えるれ
好きなサイボーグは004です。

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