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2015年

本年も大変お世話になりました。
2015年も生きました。
今年は自分が書いたものが本になるという素晴らしい経験をさせていただきました。
物書きについては、また近々、2015年のことを振り返りつつ2016年のことについて書きたいと思います。

以下、何も考えずに書きます。

今年は特に何かを深く考えた年というわけではなかったけれど、遂に前向きに生きられそうになった矢先に、だったので、
今までで一番殺意と共に生きた年だったと思います(年の瀬ぎりぎりに物騒な笑)。
つまり今年も、とても楽しくても内臓のどこかに鉛がある毎日を過ごしてきました。
私の人間性がこういうものだと知っている人はあまりおらず、自分で言うのはなんですが明るい人間だと思われていそうな気がします。
今年から仲良くなった男の子に「世間知らずなお嬢様っぽいよね」と言われたことがあり、その子がデリカシーのないことを言うのはいつものことなのでウエェと思いながらもはいはいと思っていたのですが、段々と「これは私の勝利なのでは?」と思えてきました。
何も重くなく毎日楽しく過ごしている人間だと思わせることが出来ていることは大勝利なのでは。
しかし2015年も終わりに差し掛かったころ人生でほぼ初めてぐしゃぐしゃが露呈し始めてしまいおそらく限界なのだろうと思いました。
でも露呈しても良いことはありませんでした、別に認めてもらえなかったとか否定されたとかではなく、自分が楽にはならなかったそれだけです。
だからもう鉛とともに生きていこうと決めました。
こうして生きていこうと思いました。
何故「生きていこう」と思いながら生きていくことになったのだろうと思うと空しい気もします。こんな風になってしまい、しかもそれが自分の中で完結しているのだから、世界は何も変わらない。別に変えたいとか変われとか思わないけれど。

と言いながら、今年下期に変な人に絡まれる事件があったのですが、その時に「大人が助けてくれる」という現象がありその温かさに驚きました。
誰かが助けてくれるということもあるのだな。
それはおそらく、今まで求めずにも助けてくれる人が周りにいたということでもあるのだと思います。
でも暮らしや仕事の部分ではなく、精神的なところを他者が助けてくれるという現象があるのだということを自覚したのは初めてでした。
でも、思い返してみると、きっと高校や大学の友達や物書き仲間さんがいなければ私はとっくに死んでいたと思うし、妹も母も好きなので、生きているのはきっと誰かに助けられてきたからなのだと思います。

私は自分が好きなものは本当に好きだし、自分が好きなものを好きになった自分には感謝しているので、
これからも自分が好きなものに生かされていくと思います。
自分が好きなものに出会えた生活はこの人生しかないかもしれないから、その点では人生を大事にしたいと思います。

過去のこと最近のこと、楽しいこともたくさんあった。
未来のこと、たぶん楽しいことがたくさんある。
私は結局生かされているし、贅沢にも死んだら悲しんでくれる人もいる。

自分のことを書くのは恥ずかしいことです。
自分の鉛を吐き出すのは甘えのようだと思います。
でも今年はこんな年でした。
こうして生きた年でした。
いつものことでした。
でも、鉛を飲みながらも、楽しいこともたくさんありました。
来年も楽しいことがたくさんあります。
それを楽しんでいればいいのです。
いつか鉛がごろりと出てくるか、どろりと出てくるか、その日まで生きるのです。
その日からも、また、生きるのです。

2016年も生きます。
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2015年12月12日

青空を見ていられなくて、目を瞑って歩いた。
それでも青空が好きなのだった。人並みに小さな晴れやかさを好きでいる。

期待をしないでほしい。
たまに自分の愚かしさを知ってほしいと思うのは、心配してほしいからではない。
明るい人間でいてくれるだろうという期待をしないでほしいただそれだけ。

明日には地球が爆発して全員死ぬかもしれない。
明日には自分がホームに転落して全員死ぬかもしれない。
どちらを夢想するかによって明日は変わるのか。

夜が怖くて泣いてしまう時より、朝が苦しくて泣いてしまう時の方が、崩落しそうなのだろうか。
朝なんて来なくていいとも思わないが、来たとしても嬉しいわけではない。
ただ朝のことは好きなのだ。
朝には何の罪もない。
朝よずっと続いて。朝よ人々に幸せをもたらして。朝よ世界に平和を。

平和も幸せもよくわからない。
もしかすると持っているのかもしれない。
もしかすると持っていないのかれない。
もしかすると手に入れられたのかもしれない。
手に入れたいとも思わない。
でも手放したくもない。
これからも生きていくとして、どこかで触れられたら、いつかは。

15分小説「取り壊されるまでに」

制限時間:15分 お題:有名な家 必要要素:予想外の展開
2年前くらいのものだと思います。「即興小説トレーニング」というサイトにて、15分きっかりで。

「あの家、取り壊されるらしいよ」
「えっ」
川上が言ったことに、俺は本当に驚いた。
あの家、とは、ちょうど3丁目と4丁目の境にあたる場所にある、古びた日本家屋のことだ。今となっては誰も住んでいない。いや寧ろ、かつて誰かが住んでいたのかもわからないような、廃れた家だ。
「ずっとあるのが当たり前だったから、俺も驚いたよ」
川上はオレンジジュースを飲みながら、感慨深げに言う。他の奴らが「何の話?」と寄ってきたが、川上は「地元民の話だから、お前らにはわかんねえよ」と、しょんぼりしたポーズを少し大袈裟に作った。
「そっか……」
落胆と、少しの焦りが混ざった声が出た。
あの家は、昔、俺たちの秘密基地だった。見慣れない日本家屋の造りや、土足のまま走り回っても誰も怒らない解放感、古びた家具が置きっぱなしになっているので隠れる場所や隠す場所が尽きない楽しさ。それがなくなるのは、子供時代の思い出がひとつ消えてしまうのと同じだ。
「中学生になってから、あそこで遊ばなくなったもんな」
「そうそう。それに、俺の弟から聞いた話だけど、今の子どもたちはあそこで遊べてないんだよ。なんでも、遂に玄関の引き戸の立てつけが悪くなりすぎて、開かなくなっちゃったらしい」
残念そうに、川上は言う。純粋な子供心から残念がっているのがわかって、俺は思わずくすりと笑ってしまった。しかし次の言葉は「……まあ、ああいう所はいかがわしい事に使われる可能性もあるから、取り壊しは犯罪防止になるのかもしれないけど」と高校生らしいというか、嫌に大人らしいようなことを言ったので、「うわ、そういう考えに至るのか、やっぱり」と大袈裟に驚いて見せた。
「至るだろ、そりゃ。高校生だし」と川上は笑ったが、それもまた純粋なもので、俺は、こいつが知ったらどうなるだろうと思った。

さて、どうしたものか。あの家に隠している女の子を。

屍者の帝国

死体を手に入れ、私に屍者化技術があった時、私は死者を屍者として側に置いておくだろうか。

思った以上に無傷でエンターテインメントだった「屍者の帝国」。
アレクセイが出てきてもニコライが出てきても、その結末がああであっても笑っていられたのは何故だろう……ドストエフ好きーと名乗る資格がないということか……。
それか、「屍者の帝国」が「カラマーゾフの兄弟」の続きではないとどこかで確信しているのだろうか。
「カラマーゾフの兄弟」の二人が「屍者の帝国」に繋がったのではなく、ただ前者から後者へ二人の魂の一端が投げられただけなのだ、とか。

確かにニコライが生者のままあのような形になりそれもアレクセイの手によってああなった時は
「なるほど頭を抱えるとはこういうことか」とドキリとした。しかしドキリとしたのは、その展開自体に対する衝撃からでもあったが、
おそらく皆さんが頭を抱えることになったこの場面を自分があまり悲劇だと思えなかったからでもであった。
「カラマーゾフの兄弟のあの二人がこうなっているわけではない」という思いがどこかにあったのかもしれないけれど。
仮にその思いを認め、ドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」もこの映画が全く別物だと仮定すると、「屍者の帝国」におけるアレクセイとニコライにとってあの形は別に悲劇ではなかったと思う。あの手段をとることで彼らは永遠に一緒にいることが出来るし、取り返しのつかないことを取り返すことがほぼ出来たのでは。

例えばこの映画を通して制作側が何かをドストエフスキー好きに突きつけているとしたら、私は別に深く考えなかったので突きつけられている!とも思わなかったが突きつけていると仮定すると、以下のようなことなのかなあ。
ドストエフスキー二次創作は好きにやってくれ、行きつく先は皆同じ、死なのだから。それとも死なせるのは嫌?悲劇だと思う?だったらこの映画を見て、ほら、死ななかったよ。
どう、アレクセイとニコライにとってこれは幸せかい。
幸せと思うなら、死んだ後も生き続ければいい。幸せでないと思うなら、死に向かわせてあげたらいい。
どちらも嫌なら、生きている彼らを考えていけばいい。
……みたいな。よくわからん。というかそもそも私はドスト二次をあまり考えないから、完全に後付け。
観賞中に感じたとしたら「こういうアレクセイとニコライもいいかもね!どう!?」みたいな実験的好奇心くらい。
屍者化しての食卓シーンは「うわぁ」とは思ったけれど、そういうカラマーゾフの終わりも一つの終わり方としてあるかもしれない、と納得してしまった。むしろ兄さんがあんなボロッとしていたことに納得がいかない。

達成したら世界を揺るがすような目的を達成したい理由が隣にいる友人ただ一人と一緒にいたいから、という流れは良かった。ワトソンとフライデー。ただそこまでマッドではなかったし、歪んでいるようにも見えなかった。何故だろう。アレクセイとニコライに対しても、ワトソンとフライデーに対しても、刃先が上滑りして傷がつかなかったみたいな感覚。
でも鼻をペンでトントンとか、共に刺すところでフライデーが笑うとか、最後の手をぎゅっとか、人並みに感動したので、「屍者の帝国」が伝えたいことは割と受け取ったとは思う。ただ頭を抱えもしなかったしダメージもあまり受けなかったし、終盤の展開とか画面の見せ方とか少年漫画のようだったので、良い意味で「普通に」という言葉を使うと、
普通にエンターテインメントだった。
上滑りしたと思っていても実はついていた傷に気が付いていないのか、傷が入り込む余地がないのか、傷もつかないほど読み取れていないのか、頭を抱えなかった理由は観賞後数日経ってもよくわかっていない。
観賞中私はふふふと笑っていたし、隣の誘ってくれた友達も笑っている気がした。その笑いの意味合いはおそらく一緒なのだろうと推測は出来ていたけれど、実際にはどう思いながら見ているのかは終わってみないとわからなかった。エンドロールが終わって明かりがついた映画館で、私は映画に対して何も恨んでいなかったし、疲労はあったけど沈んでもいなかった。
面白かったねと言っていいのだろうか、意外と古典的なバトルシーンが多かったよね、狂気もそこまでではなかった、アレクセイとニコライならああいう終わり方もあるかも、とか、何がドストエフスキー好きとして正しい感想なのだろうといったことを考えて、脳内が「?」でいっぱいになっていた。
そうしたらお友達も「?」といった雰囲気を醸し出しており、感想が一致していたので(上記のようなことである)、この方と観に行って良かったなと思った。
帰り道線路に飛び込みたいとかは思わなかった。ただ道行く人を見て「みんな生きてるじゃん……」と多少がっかりした気持ちになった。その後、普通にみんなが生きていることの方が不思議な気がしてきた。

とにもかくにも、「屍者の帝国」は面白かった。
「死体を手に入れ、私に屍者化技術があった時、私は死者を屍者として側に置いておくだろうか」ということをその夜考えたけれど、そうかワトソンにはフライデーとの約束という名目があったからあのような行動に出ても違和感はなかったのだな狂気の科学者のように見えなかったのだただ約束を果たしたかっただけなのだから、と妙に納得した。大事な約束があってもそれによって世界より友人を選んでいるのはおかしいんだと思うおそらく。私も屍者としてでも隣にいてほしいとちょっと思うけれど、たぶんフライデーと違って本人が望まないだろうから(フライデーも本気で望んでいたのかはわからないけれどおそらく本気だったのだと思う)止めておこう。屍者化技術を持っていたら自分のためには使わない。ワトソンとフライデーみたいな二人のために使う。破棄しなくてごめん。
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えるれ

Author:えるれ
好きなサイボーグは004です。

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