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屍者の帝国

死体を手に入れ、私に屍者化技術があった時、私は死者を屍者として側に置いておくだろうか。

思った以上に無傷でエンターテインメントだった「屍者の帝国」。
アレクセイが出てきてもニコライが出てきても、その結末がああであっても笑っていられたのは何故だろう……ドストエフ好きーと名乗る資格がないということか……。
それか、「屍者の帝国」が「カラマーゾフの兄弟」の続きではないとどこかで確信しているのだろうか。
「カラマーゾフの兄弟」の二人が「屍者の帝国」に繋がったのではなく、ただ前者から後者へ二人の魂の一端が投げられただけなのだ、とか。

確かにニコライが生者のままあのような形になりそれもアレクセイの手によってああなった時は
「なるほど頭を抱えるとはこういうことか」とドキリとした。しかしドキリとしたのは、その展開自体に対する衝撃からでもあったが、
おそらく皆さんが頭を抱えることになったこの場面を自分があまり悲劇だと思えなかったからでもであった。
「カラマーゾフの兄弟のあの二人がこうなっているわけではない」という思いがどこかにあったのかもしれないけれど。
仮にその思いを認め、ドストエフスキー作「カラマーゾフの兄弟」もこの映画が全く別物だと仮定すると、「屍者の帝国」におけるアレクセイとニコライにとってあの形は別に悲劇ではなかったと思う。あの手段をとることで彼らは永遠に一緒にいることが出来るし、取り返しのつかないことを取り返すことがほぼ出来たのでは。

例えばこの映画を通して制作側が何かをドストエフスキー好きに突きつけているとしたら、私は別に深く考えなかったので突きつけられている!とも思わなかったが突きつけていると仮定すると、以下のようなことなのかなあ。
ドストエフスキー二次創作は好きにやってくれ、行きつく先は皆同じ、死なのだから。それとも死なせるのは嫌?悲劇だと思う?だったらこの映画を見て、ほら、死ななかったよ。
どう、アレクセイとニコライにとってこれは幸せかい。
幸せと思うなら、死んだ後も生き続ければいい。幸せでないと思うなら、死に向かわせてあげたらいい。
どちらも嫌なら、生きている彼らを考えていけばいい。
……みたいな。よくわからん。というかそもそも私はドスト二次をあまり考えないから、完全に後付け。
観賞中に感じたとしたら「こういうアレクセイとニコライもいいかもね!どう!?」みたいな実験的好奇心くらい。
屍者化しての食卓シーンは「うわぁ」とは思ったけれど、そういうカラマーゾフの終わりも一つの終わり方としてあるかもしれない、と納得してしまった。むしろ兄さんがあんなボロッとしていたことに納得がいかない。

達成したら世界を揺るがすような目的を達成したい理由が隣にいる友人ただ一人と一緒にいたいから、という流れは良かった。ワトソンとフライデー。ただそこまでマッドではなかったし、歪んでいるようにも見えなかった。何故だろう。アレクセイとニコライに対しても、ワトソンとフライデーに対しても、刃先が上滑りして傷がつかなかったみたいな感覚。
でも鼻をペンでトントンとか、共に刺すところでフライデーが笑うとか、最後の手をぎゅっとか、人並みに感動したので、「屍者の帝国」が伝えたいことは割と受け取ったとは思う。ただ頭を抱えもしなかったしダメージもあまり受けなかったし、終盤の展開とか画面の見せ方とか少年漫画のようだったので、良い意味で「普通に」という言葉を使うと、
普通にエンターテインメントだった。
上滑りしたと思っていても実はついていた傷に気が付いていないのか、傷が入り込む余地がないのか、傷もつかないほど読み取れていないのか、頭を抱えなかった理由は観賞後数日経ってもよくわかっていない。
観賞中私はふふふと笑っていたし、隣の誘ってくれた友達も笑っている気がした。その笑いの意味合いはおそらく一緒なのだろうと推測は出来ていたけれど、実際にはどう思いながら見ているのかは終わってみないとわからなかった。エンドロールが終わって明かりがついた映画館で、私は映画に対して何も恨んでいなかったし、疲労はあったけど沈んでもいなかった。
面白かったねと言っていいのだろうか、意外と古典的なバトルシーンが多かったよね、狂気もそこまでではなかった、アレクセイとニコライならああいう終わり方もあるかも、とか、何がドストエフスキー好きとして正しい感想なのだろうといったことを考えて、脳内が「?」でいっぱいになっていた。
そうしたらお友達も「?」といった雰囲気を醸し出しており、感想が一致していたので(上記のようなことである)、この方と観に行って良かったなと思った。
帰り道線路に飛び込みたいとかは思わなかった。ただ道行く人を見て「みんな生きてるじゃん……」と多少がっかりした気持ちになった。その後、普通にみんなが生きていることの方が不思議な気がしてきた。

とにもかくにも、「屍者の帝国」は面白かった。
「死体を手に入れ、私に屍者化技術があった時、私は死者を屍者として側に置いておくだろうか」ということをその夜考えたけれど、そうかワトソンにはフライデーとの約束という名目があったからあのような行動に出ても違和感はなかったのだな狂気の科学者のように見えなかったのだただ約束を果たしたかっただけなのだから、と妙に納得した。大事な約束があってもそれによって世界より友人を選んでいるのはおかしいんだと思うおそらく。私も屍者としてでも隣にいてほしいとちょっと思うけれど、たぶんフライデーと違って本人が望まないだろうから(フライデーも本気で望んでいたのかはわからないけれどおそらく本気だったのだと思う)止めておこう。屍者化技術を持っていたら自分のためには使わない。ワトソンとフライデーみたいな二人のために使う。破棄しなくてごめん。
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